Vol.195 “選挙でね こんな日本に なったのよ” ———「民主主義」に未来はあるのか?
“選挙でね こんな日本に なったのよ”
上記は、毎日新聞連載コラム「仲畑流万能川柳」の去る1月15日の「秀逸」作品です。
「浜松 よんぼ」さんの作、正に秀逸!
5年前の第2次安倍政権発足以降、私のなかで沸々と沸き起こって来ている諸々の想いが、見事に17文字に詠み込まれている感じで、「民主主義」というものについて改めて深く考えさせられます。
同時に、川柳の力にも今更ながら感じ入っているところです。
(因みに、私は2014年12月の総選挙結果を受けて、
Vol.163 “『民主的』に『近代強権国家』に逆戻り!”
と題する思いを記させて頂きましたが、それは題名から
しても、この川柳と平仄が合うものと言えます)
経済学者・思想家の佐伯啓思先生は、『さらば、民主主義 憲法と日本社会を問いなおす』(2017年5月刊、朝日新書)のなかで、次のように述べておられます。
私も全く同じ思いです。
“民主主義は、ある程度社会が安定していて人々の価値観が共有
されており、突拍子もない出来事が起きない比較的穏やかな
状態では一定の機能を果たすことができます。
ところが、社会が不安定になり混乱期を迎えると、民主主義は
デマゴーグ型指導者を生み出す可能性がかなりあるということです。
その意味で、民主主義とは何なのか、改めて問うべき時代になった
のです。“
しかし、ことは単にわが国だけの問題ではありません。
「トランプのアメリカ」でも、過半の人々が、
“選挙でね こんなアメリカに なったのよ”
と心底嘆いているところですし、イギリスはじめ他の先進民主主義国でも、大なり小なり同様の事態・現象が起きています。
一方で、「トランプのアメリカ」でも、そして「安倍一強の日本」でも、
“選挙でね こんないい国に なったのよ”
と信じている人が、3〜4割程度はいることを思う時、「民主主義」は進めば進む程、「分断」と「政治不信」を、更には「不寛容」をも、もたらすのではないかと思わずにはいられません。
この辺りに関し、前記佐伯啓思先生は別書のなかで次のように述べておられます。
「民主主義」の本質をつく指摘と受け止めています。
“民主主義は「人々」が主権者である限り、人々の「エゴ」を全開
させるのですが、その結果は「国民のため」でなければならない、
という 。こんなことはありえないのです。
だからどうしても民主政治は政治不信を招いてしまいます。
それは、結局のところ、無数の「エゴ」の集まりであるバラバラな
「人々」の契約によって支配を正当化する、というホッブス流の
近代的な主権の論理に無理があるからにほかなりません。“
(『正義の偽装』 2014年1月刊 新潮新書)
果たして「民主主義」に未来はあるのか?
———「民主主義」を真に「民主的」に運営するには、何が必要なのか?
どうすれば良いのか?
———「多数」よりも「正義」が優先されるような「民主主義」は、
どうすれば実現出来るのか?
私は、今最も必要なことは、洋の東西を問わず、主権者一人一人が広い意味での本物の「宗教心」を取り戻すことであると固く信じています。
相対性理論のアインシュタイン(1879〜1955)の名言に、
“宗教の無い科学は不完全であり、科学の無い宗教は盲目である”
(Science without religion is lame, religion without science is blind)
がありますが、私はそれに倣って、
“宗教心の無い民主主義は暴走する 民主主義の無い宗教心は迷走する“
と言いたいと思います。
“民主主義 宗教心を 根底に”
“宗教心 無くば暴走 民主主義”
(尚、「宗教心」につきましては、10年以上前に記しました、
を併せご参照頂ければと思います。
これは長いわが国の歴史を、「宗教」との係わりという観点から大きく4期に分けた上で、「宗教心溢れる」新しい第5期の到来を望むものです)
(完)
2018年02月05日
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