Vol.162 「ふたつよいことさてないものよ」                   ———河合隼雄先生の言葉と幸田露伴の「惜福」

[その他スピリチュアル分野]

私がかねて心の師と仰ぐ臨床心理学者(故)河合隼雄先生は、エッセイ集『こころの処方箋』のなかで、次のように述べておられます。


    『人間の心に関する「法則」などというものも、あまり当てに
     ならなかったり、一面的だったりして、頼り甲斐のないものである。

     従って、私は「法則」は好きではないが、それでも割と好きなのが、
     「ふたつよいことさてないものよ」という法則である。』

『こころの処方箋』には、先生のエッセイ55篇が収録されていますが、この「ふたつよいことさてないものよ」は、その二番目に登場。
以下は(上記を含め)、そこからの抜粋です。

(因みに、最初のエッセイは「人の心などわかるはずがない」です)


    『「ふたつよいことさてないものよ」というのは、ひとつよいことが
     あると、ひとつ悪いことがあるとも考えられる、ということだ。』


    『世の中なかなかうまくできていて、よいことずくめにならないように
     仕組まれている。
     このことを知らないために、愚痴を言ったり、文句をいったりばかり
     して生きている人も居る。
     その人の言っている悪いことは、何かよいことのバランスのために
     存在していることを見抜けていないのである。』


    『この法則はまた、ふたつわるいこともさてないものよと言っていると
     考えられる。
     何かわるいこと嫌なことがあるとき、よく目をこらして見ると、
     それに見合う「よいこと」が存在していることが多い。』

確かに先生の言われる通りで、ただただうなずくばかりです。
更に次の様に続きます。


    『この法則の素晴らしいのは、「さてないものよ」と言って、
     「ふたつよいことは絶対にない」などとは言っていないところである。
     そんなに固い絶対的真理を述べているのではないのだ。
     ふたつよいことも、けっこうあるときはあるものだ。』

おっしゃる様に、「ふたつよいこと」も、またそれとは逆に「ふたつ悪いこと」も、起きる時には結構起きることは、私達が日常よく見聞きするところです。

こういう現象はいったいどのように捉えたら良いのか? 以下が先生の答えです。


    『ふたつよいことは、よほどの努力かよほどの好運か、あるいは
     両者が重なったときに訪れてくるが、一般には努力も必要とは
     いうものの好運によることが多いように思われる。

     好運によって、ふたつよいことがあったときも、うぬぼれで
     自分の努力によって生じたと思う人は、次に同じくらいの努力で、
     ふたつよいことをせしめようとするが、そうはゆかず、今度は
     ふたつわるいことを背負いこんで、こんなはずではなかったのに、
     と嘆いたりすることにもなる。』


何やら、中国の故事「人間万事塞翁が馬」を彷彿とさせます。

さてここからは、この法則からのいわば教訓です。


    『ふたつよいことがさてないもの、とわかってくると、何かよいことが
     あると、それとバランスをする「わるい」ことの存在が前もって
     見えてくることが多い。

     それが前もって見えてくると、少なくともそれを受ける覚悟ができる。
     人間は同じ苦痛でも覚悟したり、わけがわかっていたりすると
     相当にしのぎやすいものである。
     あるいは、前もって積極的に引き受けることによって、難を軽くする
     こともできるだろう。

     何か祝い事があると、親類や隣近所にお餅を配ったりするような、
     古来からある風習も、このようなバランス感覚によってなされてきた
     側面もあるだろう。
     何だか面倒くさく感じられる古い慣習や儀礼なども、このような観点
     から見直してみると、あんがい意義の見出せるものもあると
     思われる。』


 

上記『古来からある風習』で思い浮かびますのは、「おすそ分けをする」という古くからの日本語です。


「すそ」は、着物の「裾」で、地面に近い末端の部分。転じて、主要ではないもの、あまり役に立たないものも意味します。

「おすそ分けですが、、、」は、「つまらないものですが、、、」同様、人様に何かをお分けする時のへりくだった言い方です。
しかし、この言葉は最近あまり耳にしなくなったような気がします。

日本人が、先生の言われる『バランス感覚』に思いを致さなくなってきている現れなのかも知れません。


「何かよいこと」があったらどうすればよいか、といったあたりに関し、明治の文豪幸田露伴は、「幸福三説」という考え方を唱え、その第一として「惜福(せきふく)」、「福を惜(おし)む」という言葉を世に出しています。
さすがに文豪、相当に味わい深い表現です。

以下は、彼の著書『努力論』からですが、「ふたつよいこと」にあたる現象についても触れられています。


    『惜福とはどういうのかというと、福を使い尽し取り尽してしまわぬ
     をいうのである。』


    『倹約や吝嗇を惜福と解してはならぬ、すべて享受し得べきところの
     福佑を取り尽さず使い尽さずして、これを天といおうか将来と
     いおうか、いずれにしても冥々たり茫々たる運命に預け置き
     積み置くを、福を惜むというのである。』


    『惜福の工夫を積んでいる人が、不思議にまた福に遇うものであり、
     惜福の工夫に欠けて居る人が不思議に福に遇わぬものであることは、
     面白い世間の現象である。』


(尚、露伴の「幸福三説」の二番目は、「分福」——福を分かち与えるーー、三番目は「植福」——将来に向け福の種を植えるーーですが、露伴は、

『惜福の工夫あるに至って、人やや尚(たっと)ぶべしである。分福の工夫を能くするに至って、人いよいよ尚ぶべしである。能く福を植うるに至って、人真に敬愛すべき人たりというべしである。』

と述べ、「植福」が最も貴いとしています。

ただ、“「分福」も「植福」も、広く「惜福」のうち” とも言えるような気もします)


さて、河合先生に戻りますと、「ふたつよいことさてないものよ」の実質的な結びの言葉は次の通りで、やはり「心」の登場です。


    『ふたつよいことさてないものよ、というバランスを見るときに、
     物質的なことだけではなく、心の方にも目配りして見ることが
     必要である。

     
     物も心も含め、長い期間にわたって見ると、全体としてのバランスの
     よさに感心させられることが多い。』


“『物』と『心』の両面を、『長い期間』にわたって見る”、ことの重要性を述べておられる訳ですが、この『長い期間』というのは、いったいどの程度の期間を意味するのか?


私は勝手に、「現世」だけではなく、「過去世」も「来世」も含めた期間、と解釈していますが、この点、あの世で先生にお目にかかった時に是非確認してみたいと思っています。


     (早いもので河合先生があの世に移られてからもうほぼ7年半。

      下記は、私が特に感銘を受けた先生の言葉を、先生を偲びつつ
      7年前にまとめたものです。 あらためて心静かに合掌。

      Vol.49 河合隼雄先生のことーー「ユングを超えた大仏教者」 )

                              (完)

2014年12月02日

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