Vol.151 この世は「修行」(その2)                  ———憂きことの尚この上に積もれかし、、、、、、、

[「この世」シリーズ]

Vol.6 “この世は「修行」” を記しましたのは丁度10年前ですが、その思いは今も全く変わりません。


はたして私たちは、

    “何の理由もつながりも無く、全く偶然・突然この世に生まれ、
    何年・何十年か後に「死ねば全て終わり!」“

という、純粋に一過性で正に刹那的な存在なのか?


いや、そうではなくて、

    “死んで肉体は滅んでも、『魂』(霊魂・魂魄)はあの世で存在し続け、
    何度も何度もこの世に生まれ変わる“

ということではないのか?


残念ながら現在の科学では後者を証明することは出来ませんが、多くの人々が再び後者を信じる様になれば、世の中は間違いなく今より穏やかになると思っています。

        私たちの存在の本質は『魂』
        『魂』の本籍地は「あの世」
        「この世」は『魂』の「修行」の為のかりそめの場
        「修行」は当然苦しく辛い      と私は捉えています。


(因みに仏教では、この世には「生」・「老」・「病」・「死」という四つの基本的な苦しみと、「愛別離苦」・「怨憎会苦」・「求不得苦」・「五蘊盛苦」という更に四つの苦しみ、合わせて「八苦」があるとしています。
この点、やや詳しくは前記 “この世は「修行」” をご参照下さい)


   “憂きことの尚この上に積もれかし 限りある身の力試さん”

という歌があります。


作者は山陰の戦国武将山中鹿之介(一説には、江戸初期の岡山藩の陽明学者熊沢蕃山とも)。

主家尼子家再興のために、敢えて艱難辛苦を請じ入れてまで自らの成長を期すという、鹿之介の悲壮な決意に心打たれます。


しかし、「修行」もここ迄来ますともはや修験者の域に入り、凡人には「難行苦行」になってしまいます。


あまり肩肘を張らず、そして必要以上に深刻に考え過ぎず、しなやかな達観意識とある種のふてぶてしさをもって、「憂きこと」・「八苦」と向き合うことが肝要と考えます。


ドイツの文豪ゲーテ(1749~1832)は、

   “涙と共にパンを食べた人間でなければ、人生の味はわからない”

と言っています。


   “憂きことの尚この上に積もれかし 人生の味 より楽しまん”

   “憂きことの尚この上に積もれかし この世は修行 この世はかりそめ”

(尚、Vol.130 “「霊魂」のこと、「霊格」のことなど(その3)” に、「『魂』と『遺伝子』の関係」について記させて頂いております)

                            (完)

2014年03月10日

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