Vol.114  この世の「因果」に思う

[「この世」シリーズ]

「因果」の「因」は原因の因、「果」は結果の果です。

Aという原因によって、Bという結果が生じた場合、『AとBには「因果関係」がある』ことになります。

この世の全ての出来ごとには、それが起きる原因が必ずあり、原因なしには何ごとも起きないと考えていますが、

ここでの重要なポイントは、“「因果」をどの『時空』で捉えるか” であると思っています。


この点、「西洋近代合理主義」は、「因果」を目に見える範囲、検証可能なものだけに限定しました。

そしてそれを基に「近代科学」が生まれ、人類はここ二・三世紀の間に驚くべき物質的発展をなし遂げました。

しかし一方、「近代文明」には今やどす黒い影が射し始め、私たちは大変大きな曲がり角に差しかかっていることもまた間違いのないところです。


     (この点詳しくは、Vol.7 “「近代合理主義」の功と罪”
      ご参照頂ければと思います)


「近代合理主義」以前、人々は「因果」をもっとのびやかに、『時空』を超えて捉えていました。
      

例えば、仏教詩人坂村真民(1909〜2006)の『念ずれば 花ひらく』という次の詩は、「念ずる」という原因によって「花が開く」という結果が生じることを慎ましやかに詠っています。


         “念ずれば
        花ひらく

        苦しいとき
        母がいつも口にしていた
        このことばを
        わたしもいつのころからか 
        となえるようになった
        そうしてそのたび
        わたしの花がふしぎと
        ひとつひとつ
        ひらいていった“

また、仏教に『因果応報』という言葉があります。

大辞林によれば、それは

  “前世における行為の結果として現在の幸不幸があり、
  現世における行為の結果として来世における幸不幸が生じること“

です。


「この世」(「現世」)に加え、「前世」も「来世」もあり、それらを通して存在しているのが私たちの『魂』であるという考え方が前提となっていますが、

『念ずれば 花ひらく』も『因果応報』も、「近代合理主義」に照らせば、荒唐無稽・非科学的・単なる偶然ということになります。


      (『念ずれば 花ひらく』に関連するものとして、

       私の中東勤務時代の体験を基に記しました
       Vol.13 “祈れば通ず” もご参照頂ければと思います。

       また、『因果応報』に絡みましては、

       Vol.21 “「この世」と「あの世」
               ——魂のこと輪廻転生のこと“ 

       ご覧頂ければと思います)

“「因果」をどの『時空』で捉えるか” を巡っての上記二つの考え方。 私たちはそのいずれに立つべきなのか?

私は、そのどちらを選ぶかではなく、二つの考え方を止揚統合(アウフヘーベン)し、全く新しいパラダイムを構築することが、今最も求められていると考えています。

そしてそれが出来上がった時、人類は『ポスト近代』という新しい文明に入るものと思っています。


そこでは、「近代科学」と「魂」の両方を包含し、宗教や芸術とかなり親和性の高い『唯心科学主義』が基本思想となり、

経済は、「資本主義」と、かつての「マルクス主義」とをアウフヘーベンした『幸福主義』経済システムの下で運営されると考えています。


『ポスト近代文明』は、今回の東日本大震災も一つの契機に、意外に早く、具体的には今後二・三世紀のうちには、その形がかなりはっきりしてくるのではないかと感じ始めています。


           “念ずれば 花ひらく 
          念ずれば ポスト近代” 


     (尚、「東日本大震災と文明」という点につきましては、

      震災10日後に記しました、
      “東北関東大震災を契機に、「新文明」の模索を!” を 
      ご参照頂ければと思います)

                                (完)

                

2011年09月01日

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