Vol.113 『恋の蛍 山崎富栄と太宰治』にからんで(続)        ーー「文学の力」について、再び私事ですが、、、

[その他スピリチュアル分野]

私は昨年4月のこの場に、2010年・第29回新田次郎文学賞に輝いた名著『恋の蛍 山崎富栄と太宰治』を通じ初めて知った、私事の不思議なご縁について記させて頂きましたが、

今回はその続編として、だいくす朋子さんのエッセイ『文学の力』をご紹介させて頂きます。

朋子さんは、ロングセラー絵本『かわいそうな ぞう』で知られる児童文学作家(故)土家由岐雄氏のご息女で、アメリカ人と結婚されネバダ州にお住まいですが、そのエッセイは、今月発行の同人誌「めだかの仲間」に収録されています。


ところで、朋子さんの母上ツヤさん(土家由岐雄夫人)は、太宰治が入水心中をした戦争未亡人山崎富栄さんの亡夫、奥名修一さんのお姉さん。

その奥名修一さんは、大正5年生まれ、戦前の三井物産社員で、富栄さんと挙式間もない昭和19年12月マニラ支店に単身赴任、相前後して姪の朋子さん誕生、しかし現地召集を受け翌20年1月マニラ北方の山岳地帯で戦死。


以上のことを『恋の蛍』で知り、私は、やはり三井物産マニラ支店に勤務し、昭和20年7月、同じマニラ北方の山岳地帯で戦病死した自分の父親との絡みに驚愕し、前述のように、“『恋の蛍 山崎富栄と太宰治』にからんで  ——三井物産マニラ支店のことなど、私事ですが、、、” をこの場に記させて頂いた次第です。


そしてそれを、一読者の感想文として著者の松本侑子さんにもお送りしたところ、思いもよらず彼女から、私のエッセイを涙ながらに読ませて頂いた旨の、そして『恋の蛍』文庫化に向けより精度を高める為に、是非私の話しを聞きたい旨の大変丁重なご返事を頂きました。


一方で、『恋の蛍』を読んだ大正14年生まれの私の長姉からは、奥名修一さんとの絡みはもちろん初めて知ったものの、若い頃の土家由岐雄夫人とはご縁があったと知らされ、私は再び飛び上がらんばかりに驚いたものです。


そういう経緯で、私は松本侑子さんと親しくお目にかかり、また彼女のお取り計らいで、一時帰国されただいくす朋子さんとも昨秋お会いすることが出来ました。

驚いたことに、朋子さんと私は、1991年の湾岸戦争時にサウジアラビアでかかわりがあったこともわかりましたが、そのことも、そして「土家由岐雄夫人」のことも、以下の『文学の力』をご覧頂きたいと思います。

66回目の終戦記念日を間近に控え、はるかマニラ北方の山岳地帯に思いを馳せながら、そして松本侑子さんに感謝をしつつ、文学の不思議な力に深く感じ入っているところです。

                            合掌


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              文学の力

                  だいくす 朋子


    松本侑子さんは、山崎富栄と太宰治の物語『恋の蛍』出版後、 文庫本発行の際に必要な訂正箇所、並びに追加補足の為、更に研究を重ねて、人脈をたどり、資料集めに勤しんでおられた。

侑子さんは、落ち着いた物腰の博識で勤勉家。

人との繫がりを大切になさる礼儀正しい方で、私が二度お会いして以来、そのお人柄と、翻訳家・作家としての姿勢に、すっかり魅せられてしまった方である。


    去年、帰国した際、侑子さんの計らいで、思わぬ方とお会いする事が出来た。

富栄さんの夫で私の叔父、奥名修一が三井物産に勤めていた頃、電信課におられた篠田昌忠氏の息子さん、孝道氏である。


    彼も三井物産に勤務し、退職なされたが、父昌忠氏は、東京外語大学のマレー語科を卒業されて、大正八年から十年迄、シンガポールへ行っていらしたと言う。

父が三菱合資会社の社員としてシンガポールへ赴いたのは大正十年だった。

当時三井・三菱の社員の集う場所で、二人が出会っていた可能性がある。


    修一叔父は、会計課勤務で砂糖を担当していたが、夜間電信掛の補助員を兼任していて、電信のプロであられた昌忠氏の指導の許に仕事をしていた事が、三井物産の社員録から判明された。

その上、修一叔父がマニラ支店に転勤の際、叔父を出迎えたのは、支店長代理兼庶務課長の昌忠氏であった。

二人は東京とマニラで一緒に仕事をしていたことになる。

修一叔父が戦死した後、昌忠氏はフィリピンで戦病死された。


    私が篠田孝道氏にどうしてもお会いしたいと思ったのは、「私の姉が、朋子さんのお母様のツヤさんが、自分の『ねいや』をしていたと言うのですよ」と言う一言だった。

私の知らない母の独身時代の事が分かるかもしれない、という期待からだった。


    ところが、孝道氏と話をしている内に、「ねいや」は大正十三年頃から二・三年篠田家に居たと言う事で、その頃は、私の母は東京で教鞭をとった後、インドのカルカッタにある日本総領事館に派遣されていた時だった。

その「ねいや」は、突然、昭和十一・二年頃、篠田家を訪れて、「主人の本です」と、土家由岐雄の本を持参して来た事から、父の先妻で病死したハルさんだったことが分かった。


    孝道氏のお姉様は、父の先妻が亡くなり、母が後妻になった事は全く知らずに、てっきり「ねいや」は、私の母ツヤと思ってしまった訳で、その時に読んだ父の本の題名も内容も忘れてしまったが、父が子供の頃からあこがれの存在であり、その本を愛読していたそうだ。

その後、父の名を耳にする度に、しっかりした、優しい「ねいや」を思い出していたとの事。

早速調べると、その本の題名は『夢を売る店』だった。


    思えば、父は、先妻と後妻の弟、両人を通じて、篠田家と見えない糸で繫がっていたことになる。

篠田家との奇縁は、正に『恋の蛍』が結びつけてくれたものであり、今度は私が篠田孝道氏と巡り合う機会をもたらした。

その孝道氏は、湾岸戦争中、サウジアラビアのジェッダに駐在していて、石油会社に勤務中の私が、東部地区アルコバールのホテル内に臨時に設置された日本領事館に頼まれて、毎朝戦争の最新情報を、ファックスで会社から送っていた事を、ジェッダで耳にしていたと言う。

これも縁である。


    『恋の蛍』の一冊から、私は子供の頃に母親を亡くして寂しい思いをした姉兄達に、少しでも母親が何をしていて、どのような人であったかを報告できる朗報を得た事になる。

私の知らなかった修一叔父の事も、もっと知る事が出来た。


    文学・歌曲であれ詩であれ、一つの作品は、それを読み、聴く人々のおかれた環境、たどって来た人生に依って、受け取り方は様々であっても、私達に何らかの影響を与える。

今まで書き貯めた作品や趣味の蒐集を本にまとめ、発表したりして、私が感動を受けている先輩達に、少しでも追いついて行きたい。

文学の持つ力を信じて、邁進して行こう。


         —————————————————

                               (完)

2011年08月10日

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