Vol.103 21世紀 Second decade の始まりにあたって          ーー時代認識とわが国の可能性など

[その他スピリチュアル分野]

早いもので21世紀最初の10年が終り、今年から二番目の十年(Second decade)に入りました。

21世紀について、フランスの作家で文化大臣でもあったアンドレ・マルローは、

   “21世紀はスピリチュアルな時代となるであろう、
   さもなくばそれは存在しない。“

    -Le 21eme siècle sera spiritual ou ne sera pas--

という予言をしましたが、21世紀最初の年に起きた9.11.事件、それに対するブッシュのアメリカの大報復戦争により、この10年は『スピリチュアル』とはほど遠いものになってしまいました。

 
      (尚、『スピリチュアル』に付いての私なりの解釈は、
        Vol.46 “「スピリチュアル」とは? ——その本来の
        意味、WHOのことなどーー“
をご参照頂ければと
        思います。
        その末尾の方に、上記マルローの言葉も出て参ります)


果たして21世紀は、そして世界は、わが国はどうなるのか? 

私は過去4年、それぞれの年始めに自らの思いをこの場に記して参りましたが、今年はやや趣向を替え、20世紀のこと、更には近代全体のこと、そして21世紀のこと、わが国の進むべき方向と可能性などに関し、私が感銘を受け共感を覚える言葉の数々を転載しご高覧に供させて頂きます。


      (過去4年の私の年頭の思いは以下の通りです)

       2007年 Vol.36 「小鳥の誓願」(年頭にあたって)

       2008年 Vol.53 「こころの時代なのか」
               ——年頭にあたって河合隼雄先生の
                 14年前のメッセージを
                 あらためてー

       2009年 Vol.71 年の初めに日本仏教界の
                  覚醒を願う!
 

       2010年 Vol.91 「魂」には、善も悪も、真も偽も
                 埋め込まれている!
                 —年の始めに思うことー


先ず初めは、私の心の師である哲学者梅原猛先生の、『西洋近代文明と人間』に関する核心を突くリマークです。


    “西洋近代文明はキリスト教のなかから生まれたのですが、それは
    神の問題をいちおうかっこのなかに入れたのです。

    キリスト教の信仰のなかには多くの不合理な話がある。
    理性を信ずる近代人は、そのような不合理な話を信ずるわけには
    いかない。
    それで近代人はなるべく宗教のことは問題にしないですまそうと
    思ったのです。

    宗教より理性を信ずる、それが近代哲学の出発点であり、
    デカルトの哲学はまさにそういう原理の上にたっていたのです。

             (中略)

    カントは道徳的理性を理論的理性より上位において、道徳をして
    宗教にかわらせようとしましたが、時代の大勢は宗教の束縛からも
    人間を解放しようとするとともに、道徳の束縛からも人間を解放
    しようとする方向にすすみました。

    しかし、宗教からも道徳からも解放された人間はいったいいかなる
    人間になるのか。

    それは無限の欲望の満足をひたする希求する人間です。
    現代人は宗教と道徳から解放され、日一日純粋な欲望人になりはて
    ていくのです。

    これが高度に発展した資本主義社会の人間の運命ですが、
    人間が純粋な欲望人になりはてるとしたら、それは人間の精神の
    崩壊を示すものであります。“

              (「森の思想が人類を救う」1991年)


   
続いては、同じく『近代・20世紀』の認識に関する、尊敬してやまない5名の方々の言葉です。

先ずは、私の三人の心の師のお一人である宗教学者山折哲雄先生です。


         (因みに私の残るお一人の師は、梅原先生のあと、
          山折先生の前の国際日本文化研究センター所長、
          心理学者故河合隼雄先生です。
          前記のように私は、3年前2008年の年頭の
          思いとして河合先生のメッセージを紹介させて
          頂きました)


   “「近代」の価値や観念がいかに重要なものであるか、私とて
    知らないわけではない。

    ただ、人間の歴史を千年二千年のタイムスパンで考え直すとき、
    「近代史観」だけでは解釈できないことが、この新しい世紀を
    迎えて一挙に噴出してきているのである。“

             (「信ずる宗教、感ずる宗教」2008年)

次は、私も長らく会員でありました「マハーサマーディ研究会」(現在の「ホロトロピック・ネットワーク」の前身)創設者である天外伺朗さんの時代認識です。

天外さんの本名は土井利忠、工学博士で元ソニー常務、CDやAIBOの開発責任者です(もっともソニー退社後すぐ、天外さんを喪主兼導師とする葬儀が執り行われていますので、正確には「本名は故土井利忠」と書くべきなのでしょうが)


    “近代文明社会は、人々がお金、地位、名誉などの煩悩を追求する
    ことを、社会の推進力としています。

    実は、その基本構造そのものに深い病根があるのです。
    それに気づかず、いたずらに技法を追求するのは、暴飲暴食を
    続けながら胃腸薬を飲むのに似ています。

    21世紀を目前に社会は混迷をきわめています。

    おそらくこれは、近代文明社会が次の形態へ脱皮するための胎動
    なのでしょう。“

               (「人はいかに癒されるか」2000年)

続いては経済学者伊東光晴先生が、柳田邦男さんとの対談のなかで述べられた、「競争」、「効率」、「合理主義」についてのリマークです。


    “われわれはいま、競争というものがどんなに人間を不幸にする
    ものかをも考える必要があります。

    効率とか合理主義と評するものが、ひとつの原理として
    それだけで貫かれたときに人間を幸福にするのか。

    20世紀はまさにその道を走り過ぎたような気がします。“

     (「柳田邦男 20世紀は人間を幸福にしたか」1998年)

4人目の方は、私も存じ上げている宗教学者町田宗鳳先生の認識です。

先生は14才から20年間大徳寺で修行のあと滞米十数年、現在は広島大学大学院教授、「風の集い」主宰。
法然の研究によりアメリカ・ペンシルベニア大学で博士号をとられていますが、法然の実像・宗教の本質をよりのびやかに的確に伝えるためとして、昨秋小説「法然の涙」を上梓、文壇にデビュー。


    “20世紀は理性偏重の文明であったといえるが、それは
    科学技術発達のために、ぜひ人類が通過しなくてはならない
    文明の一つの段階でもあった。

    しかし、ロゴス中心の文明が深刻な問題を引き起こし、一つの
    壁にぶち当たっている以上、われわれはこのへんで一つの方向転換
    に迫られている。

    理性は決して否定されてはならないが、人間性の新しい側面が
    開花してくるとすれば、それは理性を含みながら、しかもそれに
    限定されるものであってはならない。“

                 (「縄文からアイヌへ」2000年)

最後は、熊本在住の思想家、名著「逝きし世の面影」で知られる渡辺京二さんの『ヨーロッパ近代 諸刃の刃』論です。


    “ヨーロッパ中心主義は今日評判が悪いですが、ヨーロッパ近代が
    達成したものは偉大ですよ。

    芸術の形式にしてもそう。宗教の絶対性を相対化して、政治を
    宗教から分離した。
    それから人権という思想ね。
    社会参加のデモクラシーというシステム。
    すべて普遍性を持っています。

    ただ、全部諸刃の刃でね。

    世俗化されてしまった人間には、道徳的、倫理的な内発的な
    心情を持てない、生きていることの意義を求めるのが困難になる。
    合理性とは迷信を撃滅することですが、それは人間が物語を
    信じて、その中で調和感を感じながら生きている、そういう世界が
    失われることでもある。

    近代の達成を語ることは、近代の病気を語ることと同じなんです。

             (中略)

    私は近代を超えるという場合、ヘーゲル的な意味での止揚を考えて
    います。

    近代の達成を擁護しなければならないという含みがある。
    近代を超える方向を求めながら近代のよきものを擁護する。“

        (「近代をどう超えるか 渡辺京二対談集」2003年)

渡辺京二さんの言われる『近代をヘーゲル的な意味で止揚』するのに不可欠なものは、『西洋』に対する『東洋』であると考えますが、以下は、わが心からなる畏友(財)日本総合研究所理事長、「寺島文庫」代表、寺島実郎多摩大学学長からのメッセージです。

実は、私は内心彼を『平成の鈴木大拙!』と呼んでいます。


    “鈴木大拙がその長期にわたる海外体験を通じて見抜いたものは、
    西洋流のプロセスが「諸個人の『競争』を通じた進歩」であり、
    「対置概念に基づくルールの普遍化」であるという点であった。

               (中略)

    これに対し東洋思想は、「分割的知性」に立脚した論理万能主義
    ではなく、人間世界総体のあるがままの状態を生きる「主客未分化
    の全体知」を大切にする。
    ここから「分別して分別せぬ」という姿勢としての「無分別の
    分別」が生まれる。

    「我」を意識し「利害」を認識するあまり「対立」に身を置く
    西洋流の対置概念を超えて、より大きな視界からの霊性的思索
    によって、のびやかに円融自在を生きることを東洋的思想の
    神髄として大拙は示唆するのである。

               (中略)

    今日 論理万能の西洋的思考パターンに浸っている現代日本人
    からすれば、大拙の「無分別の分別」は曖昧な詭弁と思われ
    かねないが、私自身 海外体験が長くなるにつれて、東洋的な
    見方の重要性が少し分かるようになってきた。

    対置概念・対抗だけの世界から距離をとり、対立と緊張を
    超えた許容と閑雅のしなやかな選択を構想することの大切さが
    実感されてきたのである。

    そして こうした東洋的思惟が、決して古くさいものではなく、
    これからの時代にこそ反映さるべきものと思われる。

    考えれば「リサイクル」などという視点も「輪廻」さえも視野に
    入れた東洋思想に発し、しかも農耕社会の伝統のなかで実践されて
    きたわけである。

    例えば「循環と共生」をキーワードとして我々が東洋的見方の中で
    未来を構想することの意義は小さくない。“
   
                 (「中央公論」2001年1月号
                   “「正義の経済学」ふたたび”)

さて次は、かつてある勉強会でご一緒をしていました、薬学博士で「場の研究所」代表である清水博先生の、わが国の将来に期待を抱かせる言葉です。

梅原猛先生との対談の中の言葉ですが、それを受けての梅原先生の言葉も記します。

 (清水先生)

    “近代の合理主義、合理思想は大事だと思うんですが、合理の範囲が
    狭すぎますね。
    その範囲を広げるについて、西洋の世界に確たる考えがあるかと
    いうと、これがないんですね。

    そういう意味では私はいま、考えようによっては日本にも大きな
    チャンスが巡ってきたと思います。

    それは、日本が国粋主義になるというのではなくて、日本の考え方
    のなかに合理主義をもっと広げていくのに有効なものがあると
    いうことです。

              (中略)

    これからの科学の方向は、いままでのように自然と人間に分ける
    という方向では絶対進まないと思います。

    では何をとっかかりにしたらいいかというと、いままで科学の枠の
    外にあって、実は内部を決めていたものに目を向けるということ
    です。

    日本の伝統文化はそういうものについて考察していたと思う。
    外国の科学者でもよく考えている人は同じことをいいます。“

 (梅原先生)

    “いまの清水先生の言葉でいえば、自然とのかかわりのなかで生きた
    人間が、自然の環境を離れて一種の合理主義をつくりあげた。
    その合理主義がパンクしかけている。

    もう一度その合理主義を自然のなかに戻さなければいけない。
    人間が自然のなかにどういう位置を占めているのかというはっきり
    したプリンシプルを立てて、そこへ戻さなくちゃいけない。

    それが現代の思想的課題だと思います。

    日本の伝統は、その課題を果たすうえで役立つ可能性をもっている
    と私は考えているんです。“

              (「梅原猛 “九つの対話”」2000年)

続いては、やはりわが国の可能性についての作家五木寛之さんの確信的な思いです。
私も全く同じことを固く信じています。


    “宗教と民族、そして人間と自然、この間に良い関係をつくって
    いき、ともにいたわりあいながら共生していく。

    そのために、日本人が長いあいだ無意識にこころに抱きつづけて
    きた自然への考えから、また、神や仏への感受性、あいまいさと
    感じられていた日本人の感覚が、むしろ21世紀の世界のひとつの
    希望の糸口になる可能性はないのか。

    私はそのことをずっと考えつづけてきました。
    そして、たしかにその道はあると、いま確信しています。

    日本が世界にむけて発信できるのは、必ずしも近代工業の技術とか、
    伝統芸能とか、そういうことだけではありません。

    私たちのもっているおのずからなる「共生感覚」「シンクレティ
    ズム」そして自然を思いやる「アニミズム」、こういうものの
    なかから、それを磨きあげることで、世界に差し出す宝石の
    ような、大事な精神的資産があるのではないか。

    そんなふうに考えるようになってきました。“

            (「仏教のこころ」2005年 の中の
                “玄侑宗久さんとの対話(1)”)

締めくくりとして、上記すべての方々、すべての言葉に触発されました私の、この年の始めの思いを記させて頂きます、アンドレ・マルロー流にシニカルに。


    “21世紀の日本人は再びスピリチュアルになるであろう、
    そして世界を変えてゆくであろう。
    さもなくば日本人も、そして21世紀も存在しない。“

                          (完)

2011年01月07日

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