Vol.53『こころの時代なのか』ーー年頭にあたって、河合隼雄先生の14年前のメッセージをあらためてーー

[その他スピリチュアル分野]

私は昨年の年頭、お釈迦様のたとえ話しをこの場に記し、年の初めの決意を述べましたが(Vol.36 「小鳥の誓願」—年頭にあたって)、今年は、お釈迦様に代わって、わが心の師河合隼雄先生が今から14年前に書かれた『こころの時代なのか』について記させて頂きます。

河合先生に関しては、昨年11月、追悼の想いを込めて、“河合隼雄先生のことーー「ユングを超えた仏教者」” をこの場に掲載致しましたが、先生が上記『こころの時代なのか』を京都新聞に寄稿されたのは1994年1月6日です。


先生はその中で、「オカルト」「偽科学」「偽宗教」などという言葉を使われていますが、オウムの松本サリン事件が起きたのはその年の6月であり、翌95年3月には地下鉄サリン事件が発生しています。

1月の先生のメッセージに対し、メディアを含む社会全体がもっと的確に反応していたら、悲惨な事件の数々があるいは避けられたのではないかと大いに悔やまれます。

先生が強い問題意識をもって『こころの時代なのか』と問われてから今年で14年、今また我が国では、「スピリチュアル」が一大ブームになっており、当時と通底するなにやら怪しげな風潮が蔓延しつつあります。


その背景には、「近代合理主義」は人間を取り巻く問題の全てを解決することは出来ない、という厳然たる事実がある、と私は捉えていますが、ここで最も大切なことは、それら解決不能な諸問題・諸事象に対しいかなる姿勢で向き合うかであると考えています。


以下が14年前の先生のメッセージ全文です。


年の初めにあたり、自戒のよすがとしても、あらためて真摯に謙虚に受け止めたいと思っています。


尚、(1)同文は2002年に刊行された先生の “「出会い」の
      不思議” のなかに、『こころの時代を生きるために』と
     改題され収録されています。
  (2)「スピリチュアル」に関しましては、
     “Vol.46「スピリチュアル」とは?——その本来の意味、
     WHOのことなど” 
もご参照頂ければと思います。

         「こころの時代」なのか

 
   これからは「こころの時代」あるいは「宗教の時代」なのだと
   言われたりする。

   急激に物質的に豊かになり、町には物が溢れているが、こころの
   ほうはかえって貧しくなってしまったので、このあたりでこころの
   重要性を再認識することが必要である。そのためには、宗教のもつ
   役割が大いに大切になる、と考えるわけである。

   このような傾向を反映することのひとつとして、若者たちのオカルト
   に対する強い関心、それと関連しての怪しげな宗教の増加をあげる
   ことができる。
   若者がオカルトに興味をもつのは、これまでの自然科学万能的な考え
   に対する反発として生じてきている。そして、こころや霊などの
   不思議な現象が存在し、それはこれまでの自然科学の理論によっては
   解明できないと主張する。

   そのような現象はあるかも知れない。

   しかし、オカルト的なまじないやいろいろな「方法」によって自分の
   望む結果が得られると考えるところで、大きい誤りを犯してしまう。
   「・・・・・・すれば必ず・・・・・になる」というようなことを
   信じることによって、安易に偽科学が偽宗教の道に迷いこんでしまう
   のだ。

   人間のこころのことは、それほど簡単にわかったり、「よい方法」に
   よってうまく変えられたりするものではない。

   確かに、心から祈ることによって自分の願いが聞きとどけられたと
   思うときや、知人の死を「虫の知らせ」によって知ることができる
   事実があることを私は否定しない。
   しかし、そのようなことがあるからと言って、そこから単純な
   「理論」や「信心」を導き出すのは、まことに安易なことである。
   ましてや、そのようなことを種にして、お金を稼ごうとするのには、
   どうもついてゆけない。

   人間はその存在そのものに不安を内在させている、と言えるだろう。
   誰にも避けることのできない「死」ということは、常に人間に
   のしかかっている課題である。

   科学やテクノロジーが発達しすぎたために、現代人は何でもかでも
   自分の能力によって思いのままになると思いこみすぎたのでは
   なかろうか。

   遠くに行くにしろ、重いものを運ぶにしろ、伝染病を免れるにしろ、
   すべて「便利」な方法を人間は発明した。
   昔の人が困り切っていたことをどんどんと「うまく」やることが
    できるようになった。
   ここで人間は何でも「うまく」やれる「便利」な方法があると
   思いこみすぎたのではなかろうか。

   人間が恐れる「死」に対しても、それを少しでも遅らせる
   「よい方法」 がないかと考え、昔だったら死んでいるはずの人を
   どのくらい「延命」できるか競争するような医学も発達した。

   しかし、ここでわれわれは気がつきはじめた。

   いったいそれはほんとうに「よい」方法なのか。
   「延命」はほんとうに幸福なのだろうかと。
   死と直面する方法に、よい方法や便利な方法があるのだろうか。

   宗教というのは、人間に内在する不安や、死の問題をどのように
   考えるか、ということを自分なりに見出そうと苦闘することから
   生まれてくる。

   これに対しては、古来からの宗教的天才が多くの遺産を残してくれて
   いる。そこには、壮大な教義や儀礼や戒律のシステムがある。
   それによって多くの人が救われてきたのも事実であるし、現代に
   おいてもある程度はそのとおりである。

   しかし、宗教が教団を結成してくると、それは両刃の剣のように
    なる。

   教団によって守られ、信仰を同じくするものが集まって助け合う利点
   とともに、教団の組織の維持や内部の権力闘争にエネルギーを
   奪われ、本来的な宗教性が薄められる。
   その上、古い形態を守ろうとしすぎるため、現代の課題に対応する
   こと が難しくなる。

   このようなことのために「便利」で「手軽」な新しい宗教まがいの
   ことが、急増してくるのではなかろうか。

   ここで「こころの時代」などということを真剣に考えるのなら、
   そのような安易な道に逃避するのではなく、自分の「こころ」が
   ほんとうのところ、どのように感じ、どのようにはたらいているか、
   をもっと正面から見据えることをすべきではなかろうか。

   最近、不登校の生徒たちのための高等学校をつくられた兵庫県の
   生野学園の村山校長先生と対談した。

   その際、この生徒たちが雑談しているのを聞くと「人間て何や、
   人生て何や、友情はあるのか、なぜ勉強するのか」という四項目が
   いちばん多いとのことだった。

   「進学」に忙しい【よい高校生】があまり考えないことを、この子
   たちは考えているのではなかろうか。
   「こころ」の問題に直面しようとする子どもが学校へ行けなくなる
   ような社会をわれわれはつくっているのではないか、と反省する必要
   がある。

   ほんとうに「こころの時代」を願うのなら、それにふさわしい努力を
   払う覚悟がいると思われる。 
                             (完)

2008年01月03日

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