人生を考える (団塊世代の一人として)

[湯川雅弘]

人は誰しも、何らかの形で、自らの人生を考える時を持つのではないでしょうか。


私自身自らの人生を考えた記憶を振り返りますと、その内容の深みは別として、幼少時から子供なりに人生を考えていたのではないかと思っています。

17歳前後の思春期は「何のために勉強するのか」「何のために高校・大学に・・」、この「何のために・・」との疑問がさまざまな対象に向けて発せられたことを記憶しています。

そして、高校から大学時代はそれらの解を求めて哲学書や文学書に没頭し、自己過信や自己卑下・自己嫌悪に陥ったことも、青春の記憶として昨日の如く想い起こされます。

それらの記憶をたどりながら人生というもの、人間という存在について私の信じ考えるところを述べさせて頂きます。
そしてそれをこのページを読まれる読者の皆さん方の人生観・人間観とすり合せていただき、ご意見等いただければと願います。


まずは私自身の素朴な経験から人生を考えることにします。


I. 子供のとき考えた2つの大きな疑問


2006年12月、60歳になって人生を振り返ったとき、子供のとき抱いた、以下の2つの疑問は、私の人生を貫く最大のテーマであったことに気づかされます。


第一の疑問 : 「何で僕は日本に・・、日本人として生まれたのだろう」


戦後の昭和21年。ごく普通のサラリーマン家庭の3人兄妹の次男として、私は大阪に生まれました。

終戦直後の日本の貧しさは幼い私にはあまり記憶にありません。
それほど豊かではないにしても、中の上くらいの生活はしていたのでしょう。
取り立ててひもじい思いをしたこともなく小学校に上がることになりました。
団塊の世代を中心に全校生徒2500人の給食を作ることは今思うと大変な仕事であったと思いますが、当時の学校給食は、脱脂粉乳のミルクを除いては結構おいしかったことを覚えています。
きっと給食室のおばさんたちの味付けが、上手だったのでしょう。


小学校6年間を通じて、当時のクラスメートはおおよそ日本が貧しい国とは感じていなかったと思います。
あるいは、私だけが鈍感で感じていなかったのかもしれませんが。


そんな私が日本は貧しい国と感じたのは中学校に入ってからです。
テレビが普及し、我が家でも見られるようになりました。
その頃、あるアメリカのホームドラマの一場面で、日米の生活レベルの大きな格差を実感した衝撃はいまだに忘れられません。

それは、大学生の長男が中古の自動車をアルバイトしたお金で買うため、父親の承諾を得るシーンでした。「ああ〜、アメリカでは大学生がアルバイトで中古とはいえ自分の車を買うことができるのか・・・」。

当時、個人の車を買うことは到底不可能、マイカードライブは夢の夢、タクシーに乗ることがちょっとした贅沢であった時代。
画面のような生活を日本人がすることは可能なんだろうか。アメリカは私が生まれる前からテレビもカラーだと聞く、日本は白黒で3軒に1台がやっとなのに、電気冷蔵庫はまだほとんど普及していない、もちろんクーラーもしかり。

当時は戦後の復興が終わって「もはや戦後ではない」が叫ばれ、高度成長時代に入っており、「所得倍増政策」、経済的豊かさを標榜していたときの首相のスローガンは、中学1年だった私の脳裏にも焼きついていました。


物の豊かさに対して憧れを抱く、私の心のつぶやきとして「なぜ僕はアメリカ人に生まれてこなかったのだろう」「あ〜あ!あのような豊かで便利な生活がしたい。
蒸し風呂のような日本の夏にデパートのようなクーラーが家にあったら・・」。アメリカへの羨望感は、「自分はなぜ日本に・・、日本人に生まれてきたのだろうか・・」といった、それまで考えてもこなかった思いが胸の奥深くに大きな疑問として湧いて来ました。


自分の存在、なぜこのような環境の下へ生まれてきたのか?といった疑問はその後の私の人生に大きな命題として存在し続けたように思います。

そして、成人し人生の正午といわれる四十代に入ったとき、それらは必然の中に意味あるものであったということに気づかされました。
それはある人物との出会いによってですが、そのことは後に触れることとして第二の疑問に移りたいと思います。


第2の疑問 :「人間死んだら終わりなのか・・」


小学校に上がる前、近所で葬式があり、棺が車に載せられ立ち去った後、見送りの近所のおばさんどうしの会話「ああ〜これで終わりね」「本当に・・」の言葉は幼い私の心に大きな衝撃として突き刺さりました。

「終わりとは・・、何もなくなってしまうこと? 自分もいつか終わるの? 自分がなくなる・・・」この自分がなくなることへの言い知れぬ不安は、小学校6年生の頃には「死」への恐怖に変わっていました。

毎晩寝る前に「明日自分は起きられるだろうか」「目を瞑ったら漆黒の闇。死はこのような闇なのか・・」。そう考えるといい知れぬ恐怖と悲しみで枕をぬらし毎晩寝付くこととなりました。そのような日々が数ヶ月、否、一年近く続きました。


「人間死んだら終わりではない」そう信じたい。

それは私にとって最大の恐怖に打ち勝つための悲痛な叫びであり「そうあってほしい」との願望でした。その願望は私の関心を霊魂の存在、魂とは何かといった探究心に向けられていったのです。


しかし、「人間死んだら終わりではない」という真理を確信するにはそれから40年近くの歳月を要することになりました。


「すべて生有るものは滅する」この真理が揺るがないものであることは、厳然たる事実が物語っています。

この恐怖からのがれる術は、小学生当時の私にとって「諦め」でしかありませんでした。

それはどういうことかと言いますと、様々な偉人の伝記を読み漁った結果から導き出した結論でした。

「お釈迦様もイエス様も聖徳太子もエジソンも皆、死んでしまわれた。このような偉大な方でさえ死ぬんだから、取るに足らない自分なんか死ぬのは当然・・」そう思うことによって死の恐怖からようやく逃れられたのでした。


小学生だった私には、どうしても肉体が滅んだら自分の存在がなくなるとしか思えず、「諦め」で問題に幕を閉じるしかすべはなかったといえます。

当時、自分に言い聞かせたつぶやきは「そうしか仕方ないんだ・・」この言葉を何度繰り返し、自分に納得させたことか。

その思いは50年近くたった今日でもありありと想い起こす事ができます。


この2つの疑問は少年・青年期を通じて、私の人生観を大きく貫いてきたテーマでした。


II.永遠の生命としての人間 

1. 人間の本質は魂であることへの確信


死への恐怖は私にとって「人間はなぜ死ななければならないのか」「永遠に生きることは不可能なのだろうか」との思い、願望につながっていきました。

その結果、仏教の「転生輪廻」という言葉に深い憧れを抱くようになりました。

なぜ深い憧れと述べたのか。

肉体のみが人間の本質ではない。精神世界・心の世界が肉体以上に人間を構成しているとの気づきは大学を卒業する頃には、確かなものとして私の懊悩は緩和され、人間の本質が魂であるとの考えは、40代の後半、ある方との出会いによって確信となり、私の人生観はその基盤を得ることができたのです。


今ある人生を、どのように生きるか。

人間生きてきた中に、どのような人にも人生観は大なり小なり存在すると言えましょう。
しかし、その人生観を支える基盤である、「人間存在そのものとは何か」「人間観」について人はあまり考えず、「人生とは何か」「どう生きるか」に視点が行っているのではないでしょうか?


私自身がそうでした。

そのことに気づかされたのは、私が尊敬する経済評論家である久水宏之氏との出会いに始まります。

久水氏を通じて同氏が師と仰ぐ高橋佳子師を知り、その教えを乞うようになってから、私自身の人生観はコペルニクス的転換を果たしつつあるように感じています。
「果たしつつある」というのは人生、その肉体としての生命を閉じるまで進行形であると考えるからです。


私たち人間とはどのような存在なのか、その本質を考えることは極めて大切なことではないでしょうか。その本質を永遠の生命としての魂存在であることをお話しする前に、人生の出会いの重要さについて述べたいと思います。


2. 「出会い」とは


今振り返ると、師である久水氏との出会いは偶然ではなく、不思議にして必然的なものであったと感じざるを得ません。
そのことがなければ私は久水氏の師である高橋佳子氏に出会うことなく、人生の意義・人間存在の真実を知ることはなかったでしょう。


それは、以前から親しくさせていただいていた、久水氏の先輩で元日本興業銀行常務であったU氏が「僕の後輩で著名な経済評論家である久水さんに君を紹介したいので今度の日曜日に日吉駅で待ち合わせをしないか」とのお誘いをいただいたことが始まりでした。

なぜU氏が一見唐突とも思われる場を設定されたのか。

今にして思うとまさしく「神の見えざる導き」があったとしか思えません。
不思議にして必然的な出会いであったと感じます。


後で知ることになるのですが、出会いについて久水氏の師である高橋佳子師は、そのご著書の中で「人智を超えたもの」「共に生き、共に生かされる」「人は出会いによって人となり行く」ことだと述べられています。

これらの言葉の深意を年と共にますます実感している今日この頃、久水氏を通じての高橋師との出会いは、大仰に聞こえるかもしれませんが、これまで多くの宗教家や著名人の講演を拝聴し、書物(哲学書・宗教書等)を学んで来たにも拘わらずどうしても解けず知りえなかった人生の秘儀を一瞬にして氷解させるものといっても過言ではないものでした。


久水氏との出会いから17年。

この間、氏の生き方、人とのかかわりを眺めると、その広い人脈を通じての活動は多岐に亘りますが、多くの方が氏に対して尊敬の念を持っておられる背景には、氏が世間一般の物質的価値観を超越され、より高次の価値を基に人生の使命に生きられているところにあると推察します。

また、氏が師と仰ぎその生き方を真似られている「高橋佳子師とは・・」との思いを深くするところです。


3. 人間の本質「魂」とは


さて次ぎに、私が人間の本質は「魂」であるとの確信に至った経緯をお話したいと思います。

死への恐怖と不安は私に霊魂不滅・転生輪廻への願望となったことはお話しました。

人間は肉体が滅んでも終わりではなく霊魂は生き続ける。このことを何としても信じたい。その確信を得たいとの願望は私の関心を人間そのもの人生の神意を深めるのではなく、霊的現象への興味に強く引っ張られたものです。
20代の一時期は心霊科学関係の本を片っ端から読み漁り、霊的能力者すべては霊格が高いと勘違いし、世間一般の霊能者の能力に強い関心を示していった時期がありました。


そのような日々の中で、肉体の中には魂があり魂は不滅ではないか、とのなんとなく確信めいたものが芽生えてきましたが、決定的確信を得るのは私の師である久水氏(師)との出会いによってです。


氏の事務所でお会いしたとき、人生観を話し終えたところ「ところで湯川さん人間の本質は何ですか?」との問いかけに対し、私は即座に「魂でしょう」と答えたところ、「では、魂とはどのようなものですか」との問いかけがあり返答に窮してしまいました。

氏はニコニコと笑いながら、「魂とは、智慧持つ意志のエネルギーである」と述べられました。
この言葉はこれまで自分なりに学んできた、「魂」「人生」「永遠」「調和」「明暗」等に関する、バラバラだった知識が一瞬にして結晶化するような思いがしました。


取り分けアインシュタインがウィリアム・ヘルマンス著の『神を語る』(出版社:工作舎)の中で語っていた「私は無限の一部だ。いっさいが『永遠の相』の中にある」「物質には永続性はないが、エネルギーにはある。
エネルギーと結びついた物質が宇宙の実態なのだ」、さらにスピノザの『エチカ』にある「存在するものはすべて神のうちにある」(定理十五)、「存在するものは、すべてそれ自身のうちにあるか、それとも他のもののうちにある」(公理一)
これらの言葉が生き生きと脳裏によみがえってくるのを感じ、目のうろこが数十枚落ちる思いがしたのを禁じえません。


物質文明を発展させてきたユークリッド幾何学からニュートン力学、デカルトでは証明されえなかった、すなわち、計測できないものは存在しないことになる「心」「魂」といった人間を構成する部分の存在に確信が得られたことは大きな喜びでした。

「魂とは、智慧持つ意志のエネルギーである」の言葉に感動している私に対して、久水師はさらに続けて「このことは私の師である高橋先生から教わったことです」と言葉を続けられました。


人間が永遠の生命である「魂」存在であることを確信することは、その人の人生観をいっぺんに変えることにもつながります。

たとえば、「どう生きるか」に釘付けされてきた視点は、「何のために生まれてきたのか」との今人生の使命・目的に視座が移り、人生の意味・意義を掘り下げてくれる結果となりました。


4.永遠の命としての魂存在の人間観


私自身、人間が永遠の生命として転生輪廻を繰り返すことを確信した時、肉体の存在は新たに深い意味を持つに至ったといえます。

我々は、日々の人生の中に生じる出来事の一つ一つに対し、その事によるプラスマイナスを考え、目先の利害で行動を選択しがちです。

しかし、永遠の生命としての人生を捉えたとき、そのことだけを捉えて幸不幸と考える視点は薄らいでいることに、私自身気づきます。

故事の「すべては塞翁が馬」の言葉ではありませんが、すべてはプラスマイナス、光と闇、陰と陽の両面を抱いているという真理が実感として感じられます。
従って、事態に一喜一憂せず、心を落ち着けると、そのこと(事態)から何を学ぶか、「事態は自身に対する問いかけである」ことに気づきます。

もし、肉体が人生のすべてであるなら、肉体があるうちに、肉体が欲するところに従って、すなわち、唯物的欲望に呑み込まれた人生を人は送っていくのではないでしょうか。


人は魂存在として永遠の命を生き連ね、魂はその内に「願(光)いとカルマ(闇)」を抱いているとの高橋師の言葉は、私にとってこれまでの哲学書・宗教書には見られなかった言葉でした。
まさに人間存在の究極を喝破された神理であると受け止めた感動は新しいところです。


なぜ転生輪廻を人は果たすのか。


人生の目的とは高橋師によれば、大きくは

   (ァ)智慧もつ意志のエネルギーである魂はそのカルマとしての「魂
      の歪」を修正し、より神の意志に近づくことを願って生まれ
      てくる。
   (ィ)前世で果たせなかった深い後悔が動機となり、生き直しの願いを
      持って両親を選び、環境を選んで生まれてくる。

すべてを悟られた仏陀は、この世は「忍土」である。つまり、さまざまな試練があり、それら試練に耐え、乗り越えていくことが試される世界であると述べられています。

そのような世界になぜ人は生まれてくるのか、以前の私には理解できませんでしたが、永遠の生命である魂が抱く願を知ったことによって、これまでの人生で不可解であったことがより明確になりました。

そのような魂存在である人間は、この世に生まれてくる前は、そのような願いを抱いていながらも、肉体を持ってこの世に誕生すると、プラトンが語っているように、レイテの泉の水を飲み前世での後悔を忘れ、この世に生まれて来た目的を忘れてしまうということではないでしょうか。(完)

      湯川雅弘(ソフトビジネス・コンサルティング代表 兼 大学講師)
  

2007年05月07日

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