Vol.39『真っ当な宗教教育』を学校で!

[その他政治・社会分野]

「教育再生会議」の第一次報告を受け、教育関連三法を今国会中に改正すべく作業が急ピッチで進行中です。

いじめや自殺が横行する学校現場の荒廃、はたまた「親が子を殺す、子が親を殺す」という荒みきった世の中を見るにつけ、「教育の再生」が喫緊の課題であることは論を待ちません。

ただ、今回の三法改正に通底するフィロソフィーが「管理・関与の強化」である点は大いに気になるところであり、改正後の施行状況を注意深く見守って行く必要があると思っています。

さて、教育再生会議は、この先5月を目途に第2次報告を、12月までに第3次報告をまとめるべく議論を深化させて行くことになっています。


議論の対象は、(1)教育内容に関する問題(2)教員に関する問題(3)教育システムに関する問題他に大別されていますが、うち教育内容に関し、私は学校で『真っ当な宗教教育』が堂々と行えるよう、再生会議が明確な方向付けをすることを大いに期待しています。


では、『真っ当な宗教教育』とは何か?
 

私は「宗教教育」とは、突き詰めれば「命」の大切さ・尊さを教えることであり、「宗教心」とは「命ある全てのものを慈しむ心」であると捉えています。

そして、私の言う『真っ当な宗教教育』の中身を規定した好例として、廃案となった民主党の「日本国教育基本法案」の条文を挙げたいと思います。

同法案の第16条「生命及び宗教に関する教育」は次の通りです。


   生の意義と死の意味を考察し、生命あるすべてのものを尊ぶ
   態度を養うことは、教育上尊重されなければならない。

   2.宗教的な伝統や文化に関する基本的知識の修得及び宗教の
     意義の理解は、教育上重視されなければならない。

   3.宗教的感性の涵養及び宗教に関する寛容の態度を養うことは、
     教育上尊重されなければならない。

   4.国、地方公共団体及びそれらが設置する学校は、特定の宗教の
     信仰を奨励し、又はこれに反対するための宗教教育その他宗教的
     活動をしてはならない。


上記に較べ、旧基本法(第9条)および新法(第15条)の「宗教教育」に関する条文は、いずれも短くあっさりしており、「心」の領域に踏み込むことを敢えて避けています。

もちろん「信教の自由」と「政教分離」の大原則を堅守すべきことは当然ですが、それに過度に配慮し過ぎるあまり、『真っ当な宗教教育』をも回避することは大きな問題であると考えます。

Vol.29『宗教心溢れる時代に向けて』のなかでやや詳しく記しましたが、私は、「宗教との関わり方」という観点で長い日本の歴史を、4期に分けて捉えています。そしてその第4期を、先の敗戦から今日まで60年余りの『宗教無き時代、日本の心を忘れた時代』と位置づけています。


我々はこの60年余、その前の第3期である『国家神道という一神教の時代』への反発、反動もあり、また占領軍の政策もあって、社会から必要以上に「宗教」を遠ざけてしまったと考えています。

「宗教」に代わって「理性」に期待をしながらここまで来たと言えますが、結果は、「親殺し、子殺し」に象徴されるような「心が荒みきった社会、神も仏も畏れない社会」になってしまったと思っています。

「理性」は「欲望」の前には無力であることがはっきりしました。
人間は弱い存在であり、「理性」だけで全てを律することは極めて難しいと確信しています。


【宗教を伴わない科学は盲目であり、科学を伴わない宗教は阿片である】


というのは、アインシュタイン(1879〜1955)の名言ですが
(尚、これはカント(1724〜1804)の【直感を伴わない概念は空疎であり、概念を伴わない直感は盲目である】を下敷きにしたものと言われています)、

私は、アインシュタインの名言を下敷きに、

【宗教を伴わない理性は無力であり、理性を伴わない宗教は阿片である】

と訴えたいと思います。

今後、教育再生会議の場において、「心」の領域に踏み込んだ深い議論がなされることを大いに期待するものですが、その為には、哲学者・宗教家・法律家・医師など、人間の根源に係わる諸問題と日々向き合っている方々が委員に加わることが必須と考えます。

この際、委員の増員ないし入れ替えも考慮されるべきと思われます。(完)

2007年03月14日

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