Vol.7 「近代合理主義」の功と罪

[その他スピリチュアル分野]

近代合理主義思想の「功」については多くを述べる必要は無いと思います。


我々の生活は、ここ二、三百年の驚異的な科学技術の発達のお陰で、それ以前の人々には全く想像もつかないほど便利で、物質的に豊かになりました。
しかも発達のスピードは超加速度的で、昨日まで夢であったことがあっという間に実現されてしまいます。


この恐るべき科学技術の発達は、17世紀ヨーロッパに生まれた「近代合理主義」と呼ばれる思想を土台にもたらされました。
それを思う時、この思想の「功」がいかに大きいものか、今更ながら驚かされます。

もちろん近代合理主義思想は突然降ってわいたように生まれたものでは無く、ルネッサンス・宗教改革という流れの延長線上に芽生えたものです。


そしてそれは18世紀の啓蒙主義へと繋がって行き、傍流としてマルクス主義を生みながら、本流はアメリカに渡り更に勢いを増し、昨今の「グローバリゼーション」の底流をなす考え方としても非西洋世界を席巻し続けています。

この「近代合理主義」の出発点となる考え方は、学問を『神』とか『魂』とかといった『目に見えないもの』から切り離し、実験や観察が出来る対象にのみ絞った上で、それらを『客観的・合理的』に解明することでありました。

『数値化』と『再現性』をキーワードとする考え方とも言えますが、そういった姿勢・思想が定着し深化敷衍したからこそ科学技術はかくも飛躍的な進歩をなし遂げ得たことは間違いありません。

一方で私は、近代合理主義思想はそもそもその出発点から、とんでも無く大きな「罪」を孕んでいたと考えています。


「罪」は初めのうちは陰に隠れており、人々は「功」の成果を大いに享受していました。

しかし次第に「罪」が本性を現し始め、今や「功」よりも「罪」の方が大きくなってしまい、放っておけば「罪」が人類や地球を破滅させるに至ることが危惧されます。

「罪」の原点は、「功」の原点である『目に見えないものを切り離した』ことそのものにあると私は考えています。

観測が出来ず再現できないものを脇に置いたからこそ、たしかに科学技術はかくも発展し、人間の生活を物質的にこれほどまでに豊かにしてくれました。


しかしその過程で『脇に置いたもの』は次第に忘れ去られ、『目に見えないものは人間にとって特に必要としない』と考えられ始め、更には『目に見えないもの、観察・再現できないものは存在しない』と見なされるようになってしまいました。


そしてその結果『科学技術は万能』であり『人間は今や自然界の王者』であると確信するに至ります。


なんとも思い上がった、傲慢な考えと断ぜざるを得ません。


西洋の人々が『中世の呪縛』『神の呪縛』から解き放され始めてから既に500年以上が経過しました。


21世紀初頭に生きる我々は、一方では、ITや先端医学など、合理主義思想のいわば「功」の極致の恩恵を受けながら、他方では、自然・環境破壊に蝕まれ、「核」の拡散・暴発や電子情報の漏洩・損壊の危険に晒され、はてはクローン人間の誕生に怯える日々を送っています。


また親が幼い子を殺す・子が年老いた親を殺す・少年が児童を殺すなどの信じられない凶悪犯罪が頻発し、我が国では毎年3万人を超す自殺者が出る、などといった異常極まりない社会に生きています。

なぜこれほどまでに殺伐とした世の中になってしまったのか?

人の心はなぜここまで荒んでしまったのか? 


これ全て近代合理主義の「罪」に起因すると私は考えています。

さはさりながら今さら中世に戻るという選択肢はありえません。

進むべき道は、ここまで深化・発展した『合理主義思想』と、『目に見えないものも信じ崇める思想』とを統合し、新たなるパラダイムを構築することであろうと考えます。
別の表現をすれば、西洋思想と東洋思想とを統合することこそが今まさに求められていると思っています。

基本方向は『人間を再び自然界に戻す』ことであると固く信じていますが、『科学技術』には、その実現に向けて、時には自己否定することも含め、新たなる貢献を大いに期待するものです。
                          (完)

2004年02月01日

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